UNI-SQUARE

青春は単なる人生の花盛りではなく、
来るべき結実の秋への準備の季節である。by竹越与三郎

表紙の写真を見て、誰なのか認識できますか?笑

3月。万物が蘇る春。今年も卒業の季節がやってきました!そして来月には、新社会人の新しいNAKAMAを迎え入れます。
NAKAMAの皆さんは社会人一年目の時を覚えていますか?記憶に新しい人もいれば、遠い昔のこと、という人もいるでしょう。3月号では、NAKAMAの青の時代をご紹介します。グループ内で多くの役員を兼務している村上さんと鶴田さんに、新人時代についてお聞きしました。一緒に見てみましょう!

村上秀都(むらかみ・ひでと)
株式会社ユニヴァ・コーポレーション 代表取締役
株式会社ユニヴァ・テクノロジーズ 代表取締役
株式会社ユニヴァ・コミュニケーションズ 代表取締役
株式会社ユニヴァ・ペイキャスト 取締役
UNIVA Marketing Limited  Director及び 日本支店 代表
株式会社ライゾーマビジネス 取締役

鶴田敏浩(つるた・としひろ)
UNIVA CAPITAL Investments Limited – Director
UNIVA CAPITAL Holdings Limited – Director
UNIVA CAPITAL Hong Kong Limited – Director
UNIVA Energy Limited – Director
Bax Company Limited – Director
MILET HK LTD – Director
環貫(広州)貿易有限公司 – 董事長
株式会社ユニヴァ・アセット・マネジメント – 代表取締役
株式会社ユニヴァ・トレード – 代表取締役


東大工学部からリクルートに入社

村上さんは東京大学工学部出身ですが、東大や工学部を選んだのには強い決意があったのでしょうか。

「機械メーカーで設計の仕事をしていた父の影響もあって、なんとなくエンジニアになるイメージがありました。高校では理系クラスに入り、とりあえずランキング上位の大学から受験したってところです。国立大学は学費が安いし受かればラッキーくらいの感じで。模擬試験では東大の合格判定は出てなかったんだけど、試験当日は何かが降りてきて(笑)、合格したときにまず思ったのは、親孝行できたということでしたね」

そう淡々と語る村上さん。
学費が安いから東大を希望、、、(Juanは驚愕😮)でも、待って!エンジニアを目指して東大工学部に入ったのに、なぜリクルートに?

「当時、理系の学生の多くは大学院に進学していましたが、私は大学の研究室に魅力を感じなかったので就職することを決めました。大手のメーカーをはじめ、銀行、証券会社などいろいろな企業を検討しましたが、大手企業は入社後の人生が容易に想像できる感じがして何かそそられなかった。そんな時『どうなるかよくわからないワクワク感』を感じたのがリクルートだったんです」

村上さんが入社した1988年のリクルートは、情報通信事業を拡大するために理系学生の大量採用を行っていました。3000人の会社で1000人が新入社員だったそうで!その採用戦略にまんまと乗せられたと、村上さんは笑顔で当時を振り返ります。

のびのびと働いていた新人時代

最初に配属されたのが情報通信事業の経理部だった村上さん。驚きや不満はなかったのでしょうか。

「全くなかったですね。当時好景気で勢いがあった『株式会社』の仕組みやその意思決定、お金の動きなどに興味があったので、経営に近い部署の配属を希望していました。最初の仕事は情報通信事業の原価管理や資産管理。その後、徐々に事業計画や予算管理等に携わるようになりました。大学の専攻とは全く違う分野でしたが、学問として学んだ知識や考え方などは、さまざまな局面で役立っていると思います」

新人時代の村上さんはどんな社員だったのでしょうか。

「当時のリクルートは社員の大半が20代と若かったこともあり、比較的自由にやらせてもらっていたと思います。私は仕事に対しては真剣に取り組んでいましたが、態度としては『舐めた社員』だったかもしれません。入社したばかりの頃、先輩社員に仕事を教わった際に『わかりました』ではなく『参考にします』と言うような新人でした(笑)。言われた通りにやるだけではなく、どうやればもっとうまくいくかを自分なりに考えながら仕事をする習性は新入社員の時からあったと思います」

当時の社員紹介資料には「要領が良い」「なんだかんだ帳尻を合わせる」といった人物評が書いてあったそう(笑)。若かりし村上さんは、どんな夢や野望を持っていたのでしょうか。

「リクルートでは『社長になる』と語るような社員が多かったけれど、そういう陽キャで押しが強い人たちは少々苦手でした(笑)。私は夢を語るよりは現実を気持ち良くしたいタイプで、何かうまくいっていないことがあると何とかしたくなるのはエンジニア気質だと思っています。リクルートには個性的な人がたくさんいましたが、派閥や陰口などのような変な人間関係に気を遣う必要がなかったのは素敵な環境でしたね」

仕事はチャンス!断らない!!

村上さんの奥さんはどなたでしょうか?コメント欄に書いてね~

その後、村上さんは、本社の経営企画、ゲーム雑誌、衛星放送などの部門を渡り歩き、仕事も経営管理だけでなくWebサイト運営や番組制作、動画配信など多岐に渡る経験を積んだそうです。リクルート時代の最後に所属していた子会社では、人事労務等を含めたバックオフィス全般の責任者やM&Aにも携わり、会社の仕組みをひと通り学んだと話す村上さんですが、新人時代からどのようなことに挑戦してきたのでしょうか。

「あまり『挑戦』を意識したことはありませんが、やったことがない仕事を初めて行うときは、ある意味すべて挑戦かもしれません。一度やってしまえば大したことがない仕事でも見通しが立つまでは不安もあるものです。しかし、一度その仕事を経験することで身に付くスキルや経験、見えてくる景色というものがあります。私は基本的には仕事を断らないスタンスでやってきました。いろいろな仕事の経験はすべて今の自分の糧となっています。」

リクルートではキャリアを積んだだけでなく、村上さんにとって、人生の大きなイベントもあったのと。

「入社3年目でチームリーダーだった私は、メンバーの女性が作成した資料に細かすぎる赤入れをしてよく嫌がられていました。しかし、その約1年半後、彼女は私の妻になっていました(笑)」

最後に若手社員にメッセージをお願いします。

「特に若い人たちには目の前の仕事をチャンスと捉え、積極的に自ら考えて取り組んで欲しいと思います。多くの仕事はスキルや経験として身につけて損になることはありません。万一必要のない仕事だったらそれを無くすことも実績になります。私も58歳とだいぶ年を取りましたが、これからも新しいことにチャレンジしてゆく気持ちは無くさないようにしたいと思います。」

地獄からパラダイスへ 波乱万丈の20代

「夢はなかった」という村上さんの話から一転「アメリカンドリーム」を夢見て渡米した若かりし鶴田青年。米国留学した幼馴染の紹介で、サンフランシスコに本社を構える米国内外にギフトショップを多く展開していた会社に就職しました。

「その会社の社長がポルシェに乗っていて、サンフランシスコの豪邸に住んで、すごくカッコよかったんです。アメリカに行って俺も成功するんだ!って本気で思っていました」

学生の頃はアルバイトしてはお金を貯めてアメリカ旅行を楽しんでいた鶴田さんでしたが、英語はさっぱり。仕事では全く通用しなかったと言います。

「観光地のギフトショップのお客様は日本人がメインでしたが、一等地の路面店には外国人の観光客も来ます。小さいお店だから、全てワンオペですよ。高校生レベルの英語で身振り手振りだけで乗り切って。毎日が修行でした」

アメリカ時代の話を聞いていると「地獄」「我慢」「修行」といった悲惨なキーワードが並びます。指導役はバリバリの昭和の体育系だったそうです。当時は、昼食を取る時間もなく、近くのスタンドで買ったホットドッグを立ったまま5分で済ませることもしばしば。そのホットドッグスタンドは見るのも嫌になったといいます。車もお金もない、楽しい思い出も一つもないという鶴田さんに転機が訪れます。

「サイパン勤務になったら毎日がパラダイスでした。ホテル内と街にある5つのショップを任されていましたので自分がボスです。給料はそんなに高くなかったけど、休憩時間には目の前のビーチで過ごし、プール付きのアパートと車を与えてもらって。もう最高ですよ!」

借金から10億円ビジネス、そして倒産

目の前に広がる青い空と青い海。そんな毎日が1年半ほど続くと、鶴田さんの中に不安が芽生えます。まだ若いのに、さすがにこのままではダメだと、会社を退職し1991年に香港移住を決意。

「香港のマネージャーをしていた前職の先輩と工場街のビルの中にある縫製工場を買収してシルク製品の製造販売を始めたんですが、蓋を開けてみたらその会社が借金だらけ。騙されていたんですね。借金取りがやってきて、工場にあったミシンやハンガーや製品など、全部持ってかれてスッカラカンに。その何もなくなった工場に他のメーカーから商品を借りて陳列しアウトレットショップにして、観光客に売ったらこれが大当たりして。年間最大売上10億円以上のビジネスに成長しました」

しかし、それも1997年の香港返還を境に顧客が減り、1998年に会社は倒産。先輩とも会社運営や最後のたたみ方で段々と考え方が合わなくなり縁を切ります。

「全てを失い、本当に何も無くなりました。しかも当時妻が妊娠中。家も借りられない状態だったので、妻は一人で日本に帰して、私は残ってくれたスタッフと小さなアパートに住んでいました。なんとか食い繋ぐために元手のいらない貿易事業を始めました」

他に選択肢がなかったと当時を振り返る鶴田さん。香港の商品を日本に輸入するビジネスから始め、その後、日本の商品を香港に輸出する事業に発展し、さらには日本政府の輸出事業や復興事業もサポートするなど、ビジネスの幅を広げます。

「人とのつながりとアイデアで、やれることはなんでもやりました」

座右の銘は「一黙微笑」

2004年にBAX社を設立し、2009年にUNIVAグループに参画。2011年にUNIVA CAPITAL Hong Kong LtdのDirector就任。今では9社の役員を兼任しています。まさに波乱万丈の人生を送ってきた鶴田さん。そんな鶴田さんの座右の銘は「一黙微笑」という聞いたことない言葉でした。

「小学生の時に新聞に載っていた言葉でした。どこかのお坊さんが綴ったエッセイの中に書いてあったその人の造語だったと思います。ものすごくインパクトがあって、私の心に突き刺さった。怒りがこみあげてきた時とか、感情が昂ったときにこの言葉を思い出しています。『一旦、黙して笑ってみろ」自分への戒めの言葉なのかな」

最後に若いNAKAMAへメッセージをお願いします。

「私の人生の鍵は“人との出会い”です。その出会いを結び紬ぐことにより広がった縁が今の私の最も大切な資産になっていると言えるでしょう。まさにUNIVA WAYなんです。稲葉さんと出会うまでは、「win-win」をモットーにビジネスの荒波を渡ってきました。でも、『win-win-win』の最後の「win」、相手のその先にある周りや全体を意識し始めたら物事がさらに順調な方向に展開すると気付いたんです。これは、UNIVAの役員だから言っているわけではなく、このような考えの方向が相手やあなた自身に貢献し、仕事もプライベートも潤いあるものにしてくれると思います。」

鶴田さん、刺激的なお話をありがとうございました!フルマラソン完走の吉報、お待ちしています。

4 COMMENTS

YOUR VOICE

ご感想とコメントをぜひ聞かせてください!

“vol123-uni-square JPN” への4件のフィードバック

  1. 北川 浩 より:

    とても印象深い記事で、やはり人の数だけ人生ドラマがあるのだな~としみじみ感じてしまいました。
    村上さん、先日は長丁場になりましたが・・・(笑)、大変有意義な時間を有難うございました。
    また、よろしくお願いいたします。
    で・・・、奥様の”正解”が気になるのですが。。。

  2. 朝倉昇誠 より:

    今回の特集は、かなり面白い!一気に読んでしまいました!
    JUAN編集長、汝!敏腕編集者!

    朝倉

  3. イワムラ ユキコ より:

    大変興味深い内容でした!どんな人も新入社員の経験はあり、その当時の気持ちや考えが様々ですね。
    村上さんの奥様は前列の真ん中の方では???

イワムラ ユキコ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です